「禁忌の兵器ー パーリア・ウェポンの系譜学ー」を読んで
私の所属する明治大学の榎本珠良先生から先日ご恵贈頂きましたご著書「禁忌の兵器ー パーリア・ウェポンの系譜学ー」を拝読させて頂きました。大変読み応えのあるものでお勧めの一冊です。多くの気づきもあったので、今回はそれらをコンパクトにまとめてみました。
この本のタイトルにある、「パーリア・ウェポン」とは、『各時代の国際的な政策議論において「パーリア」ー 他の兵器と比べて特段に憎悪すべき存在、他の兵器とは異なる除け者 ー だと論じられ、その使用等がタブー視された兵器を意味する』との記載にあるように、特定兵器がどのようにタブー視されていったのかを「時代やコンテキストに拠らずそして普遍的な視座から分析を試みること」を体現する概念用語であると言えましょうか。
「パーリア・ウェポン」の指し示す実態は、時代とそのコンテキストによって違っており、ダムダム弾、航空機、毒(化学兵器)、対人地雷、クラスター弾などといった特定兵器だけではなく、イラク戦争で有名になった「大量破壊兵器」という概念や、さらには、「防衛的兵器」とは区別を試みるいう意味での「攻撃的兵器」、及び、それらを峻別するといった「忌避対象の特定」自体も含まれております。さらに、国際的な議論においての規制化の論点には、不必要な苦痛を与え得ないか、無差別的でなく付随的被害を最小化しているのかといった人道的配慮、均衡原則や軍事的必要性などがあります。
本書を読み通した上での印象での「パーリア」とは、規制対象兵器の利用を非難の根拠とするためのスティグマ(烙印)である一方で、「規制対象以外の兵器の正当化」という全く逆の目的のための手段でもあり、古くは欧州国が安全保障という観点で自国の優位性を確保するための外交ツールに起源を見いだせるものです。規制や軍縮の議論は、歴史的に軍備を持つ「文明国主体」で進められ、「規範は戦略的に利用されてきた」という指摘もあり、外交ツールであるのと同時に、我と彼を違えるアイデンティティ確保の「お守り」とも言えましょうか。
現代日本で凡庸な教育を受けた私には想像にもないことでしたが、国際社会での安全保障の文脈における兵器とは必要な手段であるとされ、効果の高いものは戦争を短期間で収束させ自国の被害を最小限に抑え得るとの考えが根底にあり、歴史的に国境線が変わり続けた欧州人にとって、兵器は国家主権を脅かす行為への対抗手段であり、それを手放すことは難しいということなのでしょう。さらに、兵器の規制とは「持つ者のロジック」であり、持たざる「弱小国家・非国家者主体」からすると、特に国際的な緊張がある時代にあっては、未来の安全保障への制約でもあるので手放しで規制に賛同できないというのは、アプリオリに平和を享受していてそれを意識することさえも滅多にないこの国では想像さえし難い考え方とも言えましょう。
歴史的な経緯をみると、兵器規制とは、自らを「文明国家」とする者たちの決め事であり、当時の「非文明国家」においては適用されないと言う、現代の「国際法や規範」という言葉の指し示そうとしている概念とはほど遠いものに起源があることが記述されていました。特に、当時の(非文明国家である)植民地においては、文明国家間の規制対象であった無差別の空爆の正当性が「治安維持」をする上で必要であると訴えられていたことは、有り体に言えばダブルスタンダード、その時代・コンテキストにおいて「文明国家」が逃れられない桎梏であったように思います。ただ、これは過去の話でなく、比較的最近に起こったイラク侵攻においても、「大量破壊兵器の保持」をイラク侵攻の正当化の理由とし、「大量破壊兵器がなかったこと」でブッシュ政権が批判された顛末を見れば、自らを「文明国家」とし続けることの難しさを物語っているように感じます。
さらに、自分たちで定めた規制合意・規範ですらも戦争下では破ることもあり、規制合意・規範を塗り替えた歴史は、国際社会の平和的統治はいまだ見ぬ遠い未来であることと感じさせましたが、安全保障の重視から人道主義への重視というパーリアの烙印がされると、西洋先進国における国内世論の忌避視のプレッシャーは民主主義国家においてはアイデンティティの毀損にも繋がるのか、兵器大国であっても自ら「主導的に」規制せざるを得ない、いや、それどころか、民主主義国家の政治家にとっては国内世論への格好のパフォーマンスにもなり得るという事実も大変興味深い「力学」であると感じました。
国際社会での議論において、戦争下における「行為自体」を規制の対象とするのではなく「道具そのもの」を規制の対象とすることは、想像より難しく、それでもまさに乾いた砂で「平和の城」を築き上げているかの如く歴史を積み上げオタワやオスロなどの形で成果を上げた当該分野の方々の粘り強さに感服しつつも、パーリア化による規制や規範を形成することにより国際社会の有り様をコントロールしようとするアクターもいるのだということも頭の片隅に浮かんだので、そのことは欧州の舶来品をありがたく疑いもなく受け入れてしまうお人好しの自分自身への教訓としたいと感じた次第です。国際的な枠組みは、様々なアクター達によって形成されてきたということを知ることができました。
2020/06/15
修正履歴
2020/06/16 :最終パラグラフ一部修正
2020/06/17:「無差別の空爆の正当性」の箇所を修正